ホリスティックな感覚と、エソテリックな感覚  ~ ホリスティック特集2

ホリスティックという言葉は、

私の生涯の中でも、特にこだわりをもって、

使ってきた言葉の一つです。

 

ホリスティック医学協会ができたころ(1987年)は、

私は自分たちでやっていた身体運動研究の普及に追われ、

まったく余裕がない時期でしたが、

それでもそういった動きがあることは小耳にはさみ、

自分たちがやっていることと同じ方向の動きだと思っていました。

 

それ以前も、

多分生まれてからずっと、

ホリスティックなものへの憧れというのを、

もっていたような気がします。

 

幼児期から好きだった将棋や、

中学になってハマった囲碁などでも、

細かい細部の読みよりも、まず、

大局観とか、大きな流れをつかむことに、

興味をもっていました。

 

その後、自分の人生の選択でも、

そこで培った感覚を、いつも拠り所にしてきて、

今日まできています。

 

その後、超理科系だったところから転向して、

今のような道に進むきっかけになったのが、

20歳のときの秋休みを利用して1週間行った、

三島の沖ヨガ修道場でしたが、

そこでの生活が、とてもホリスティックなもので、

大きなカルチャーショックを、与えられました。

 

もう40年前になりますが、

そこで行われていたことは、

洗練されてはいないものの、

今でも十分に通用するホリスティックな営みでした。

 

自分の中では、ずっとそういうものを求めていたのに、

現実の自分の生活や考え方は、

既存のエリート路線の上を強制的に歩まされてきて、

真逆の方向に歩んでいたことに、

 

(そのときは、頭では整理がつきませんでしたが)

身が反応して居てもたってもいられず、

転向して別の道を模索するしかなかった、

ということだったのかもしれません。

 

 

なので、私にとって、

ホリスティックに関しては、

勉強して身に着けたわけでなく、

自分の中にあった懐かしい感覚、

みたいな感じなのです。

 

スマッツがどういう定義をしているのかもしらず、

(実はそれほど興味もないのですが・・・

というのは、自分のこの感覚を大切にしていけば、

きっと行きつくところは、スマッツが語ったのと

同じになるに違いないと確信しているので)

私にとって一番大切なのは、

このホリスティックな感覚なのです。

 

 

で、それに一番ピタッとフィットしたのが、

秘教だったという感じかもしれません。

 

その前にやっていた身体運動の研究も、

ホリスティックな感覚を磨くのにとても役立つものでしたが、

それ以上にそういった私の欲求を満たしてくれたのが、

秘教だったということだと思います。

 

秘教でも、重要なのが、

エソテリックな感覚だと思っています。

このエソテリックな感覚がないと、

秘教を学んでもなかなか理解が進みません。

 

私自身が最初そうでしたが、

この8年くらい、毎日秘教に明け暮れるような日を過ごすうちに、

徐々にその感覚が身について、

それとともに、秘教に対する理解が深まってきたように、

感じています。

 

エソテリックな感覚と、

ホリスティックな感覚は、

広く全体を押さえるというところは共通していますが、

探求していく方向性が、

 

エソテリックの方は、中心に向かって、

無駄なものは全部削ぎ落していく感じなのに対し、

(それゆえ、無執着が要求され、

 捨てていく際に痛みが伴いますし、

 また、周囲からも快く思われないところがあります)

 

ホリスティックな感覚の方は、

全体から中心へ、

中心から末端へ、

そしてまた全体へ、

というような寄せては返すような動きがみられ、

おおらかな感じがします。

 

私は、そのように感じています。

今日も、ホリスティックについて何か書こうと思って、

特に行き先を最初から決めずに書き始めたら、

こんなところに辿り着きました。

今日はここまでにしておきます。